このページは,亡き父が晩年に、定年後ワープロを覚え、部落の皆様から知識を集め、「下北部落記念誌」を「上区部落」で編集出版しました。 |
1、ンナフカ祭りの伝説 |
昔、上比屋(ウイピャー)という所にティンティクという男とボナサラという女の夫婦住んでいました。この夫婦の間にはサーネという7才になる男の子がいました。父に用事を言いつけられ、用事を済ませて帰ってみると、村は大津波に襲われ、人もろとも絶滅していた。
サーネは途方にくれ、一人ぼっちで泣き崩れていた。有徳の喜佐間按 司は、サーネの事を聞き、引き取って手厚く育てました。サーネが28才頃、ンナクズ浜(上比屋の東方の浜)にたたづんで沖を眺めていると、幻の如く、月光がさしたひかり輝く美人の女が乗った舟が沖から来た。びっくりしたサーネは砂浜に頭をつけ、拝んでいた。すると、サーネに「わたしはウマノアズと申します。竜宮の命を受けあなたの妻になるためにきました」といった。恐れをなして断ったが、聞き入れずに上比屋の荒れ果てていたところに家を建て、夫婦となって住んだ。
こうして、月日を重ねたときには二人の間には七人七女の子宝に恵まれ繁盛した。サーネには不思議なことがひとつあった。食料のたくわえがあるわけでもなく、もちろん畑がある訳でもないのに、三度三度の食卓にはいつも、山や海の幸のご馳走があった。
ある時、妻が「海水を汲んで来るから、この鍋の火を絶やさないよう見ていて下さい。でも、どんな事があっても鍋の蓋を開けて見てはいけません」と約束させ、出掛けていった。ところが、少し開けてみても、ばれる事は無いと考え、蓋をあけて覗いたら、ご馳走が煮えかけていた。ところが、しばらくすると、ご馳走はスーと消えてしまった。「すぐに蓋をして、しらんふりして、燃やし続けていたら。妻が帰ってきて食事のため、蓋を開けると、お湯だけだったため、サーネに蓋を開けたかとを問詰めたが、サーネは笑って知らん顔をしていただけだった。
妻は約束を 守れなかったので仕方がない、一緒に暮らすわけにはいかなくなった。といって、子供たちに別れを告げて、泣く泣く「 ンナクズ浜から、大きな鯵にのって竜宮に去ってしまった。
ウマニャーズは竜宮に去る前に子供たちに津波を防ぐ呪いとして、「ナーパイ」を教えた。これが、「ナーパイ」の由来である。
ある所に、美しい娘がいました。その娘の所に夜な夜な赤い手ぬぐいをかぶった美少年が忍んでくるようになり、二人は夫婦の契りを結ぶようになった。やがて、身おもになり、わけを聞いた、乳母は娘にある知恵を授けました。娘は男が帰るとき、教わったとおりに、男の着物の袖に日ごろ紡いでいた芭蕉の糸を通した針をそうっと刺しました。翌朝その糸をたどっていきました。すると、針先は家の後ろの石垣の穴の蛇の尾に刺さっていた。動揺している娘に乳母は「心配ない、もうじき3月3日がくるので、その日はヨモギ餅をつくって、浜に下り、波を三度かぶれば解決する」と教えました。
その日に言われたとおりにすると、すぐに、腹痛がおこり、次から、次えと七匹の蛇の子が下りてきて、また、元のきれいな体になった。
その話を聞いた娘たちは三月三日になると浜下りするようになったとの事です。
今ある前川の南の窮地に着物の染料になる藍を栽培し、盗まれない対策で番小屋を作り、番人を置いていた。すると、その北側の森の岩の上で、毎日、小鳥が水浴びをして、羽ばたいているのに気づき調べた。すると、岩の穴から滴る泉を発見しました。手ですくってみたら、冷たくて、とても美味しい水だったので、いつしか村人はひそかに汲みにくるようになった。しかし、湧き出る量が少なかったため、水桶一杯になるまで、時間がかかった。大正時代にこの泉を掘り下げて、量を多くし現在の井戸になったと言う。
この井戸の北側にはお嶽があるが、そのお嶽には絶世の美女を祭ってある。その由来は碑に記されている。それによれば、上区部落の西部方面に、美しい美人がいた。
あまりにも美しいので、男たちのあこがれの的となった。その女性は、あまりにも男たちが、つきまとうので、悩んでいた。その女性はこの井戸に自らの姿を映して美貌が故の苦しみを嘆き、今後、自分のような美人が生まれないように、また、醜女も生まれないようにと、そして井戸の水の神になろうと、祈り自殺したと伝えられている。
前川(マイガー)の泉が利用されたが、それでも部落の飲料水は不足していた。人々は順番で、水を汲んだ。自分の番が来るまではずいぶん時間がかかったので、その時間には麻(ブー)を紡いだ。そのため、ブーンガーとも呼ばれている。
このように前川が利用されてはいたが、水が不足していたため、当時の首座主(現在の区長)は井戸を掘ることを考え、毎時37年に井戸掘り名人の新垣という方にお願いして、掘る場所を探した。その結果、富嶽のうら側を掘ることにした。その資金を部落住民に相談した。しかし、掘ったところで、水が出るという保障もなく反対する人が多く、その中にはあざ笑う者さえいた。当時は今の花桐部落も上区部落の一部だった。賛成派は少なかったが、「必ず水は出る」との信念で区長は掘ることに決め、石大工も自分の家に寝起きさせて、作業を行った。当時の道具は金棒と、イソガイと金づちしかなかった。1,5mほどの直径で掘り進めたが、作業はほとんど進まなかった。一日中掘っても全く進まない日もたびたびあった。部落住民はほとんど協力しなかったが、当時の区長寛徳氏はあきらめなかった。
95日間で10mほど 掘ったところで、とうとう水脈に到達した。湧き出る量も多かったので、寛徳氏の信念に村人は信念と忍耐に感款